三陸鉄道これまでのあゆみ ②
三鉄誕生物語(沿線の希望をのせて)

1896(明治29)年6月に明治三陸大津波が三陸を襲い大きな被害を三陸沿岸にもたらした。
その復興のため、沿岸地域開発、軍事上の必要性を理由として同年7月に三陸鉄道創立申請趣意書を白根逓信大臣に提出したが、現実には至らなかった。これが「三陸鉄道」という名前が歴史上に最初に表れた時である。「起業目論書」では石巻から宮古に達する路線となっている。現在の「三陸鉄道株式会社」とは直接の関係はない。
この後、東北本線から支線の建設がはじまる。1922(大正11)年に大船渡線ー山田、宮古ー久慈が鉄道敷設法による予定鉄道路線となり三陸鉄道のかたちが見えてきた。

戦後、三陸沿岸の鉄道は岩手では盛ー釜石、宮古ー久慈を除き完成していた。この2路線と宮城県で建設が進んでいた気仙沼線(前谷地ー気仙沼)が完成すると前谷地から八戸の三陸沿岸が鉄道で直結されることになる。このルートを「三陸縦貫鉄道」と総称するようになった。1970(昭和45)年3月1日にまず、盛ー綾里の盛線が開業、盛線はさらに1973(昭和48)年7月1日に吉浜まで延長された。久慈線は1972(昭和47)2月27日にまず、宮古ー田老が開業した。この区間は宮古線という路線名となった。1975(昭和50)年7月20日に久慈―普代間が開業、こちらは工事線名と同じ久慈線で営業開始となった。

三陸縦貫鉄道の全通は、もうすぐというところであったが、国鉄の経営が悪化し、抜本的な改革が必要となった。1980(昭和55)年、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が成立、その中で経営に大きな負担になっている不採算路線の廃止が1つの柱になった。県、関係市町村は協議の末、3線の存続と、未開通部分の開業を前提に第三セクターの会社を設立することに方向を固めた。1981(昭和56)年11月4日に三陸鉄道株式会社創立総会、11月10日には設立登記が完了し三陸鉄道株式会社が正式に発足し、未開通区間の工事を再開することとなった。1983(昭和58)年に入ると開業に向けた準備が急ピッチで進んでいく。1984(昭和59)年2月3日には新線区間での試運転が始まり開業まで秒読みとなった。

「開業25周年記念出版 三陸鉄道」より抄録

1984(昭和59)年4月1日、三陸鉄道が開業。三陸鉄道は、沿線地域観光や住民の足として大きな希望を乗せて走り出した。
三陸鉄道の本社の前にある宮古駅前広場の西側に「三陸鉄道開通顕彰碑」が立っている。この碑は、三陸鉄道が開通した1984年4月に当時の岩手県知事中村直氏と宮古市長千田真一氏の連名で建立された。この、碑には、三陸の先人たちが津波や災害にもめげることなく立ち上がり、明治以来の悲願を達成したこと、そして、「後進よ この業の上に 更に三陸の未来を創建せよ」と刻まれている。きっと先人たちが、私たちに、この鉄道をしっかりと守り、すばらしい三陸の未来を作ってほしいという思いを託したのではないだろうか。

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